ダンススクール 埼玉の実現したい野望!

開発すべき新型機の構想をめぐって、英、仏、独の政府、メーカー、エアラインの思惑や利害もあって府余曲折を重ねるが、ベテイユらの構想は将来を見据えての雄大なものだった。
彼が打ち出した戦略は、ボーイングなど米航空機メーカーを相手にまともに立ち向かったのでは勝ち目がないので、ニッチ(隙間)市場を狙うことだった。
具体的には、世界のどのメーカーも手を出していない、大穴を狙った双発のワイドボディ機だった。
この構想はアメリカン航空のフランク・コルクが持論としていた野心的な案で、当時の航空機メーカーの常識からすると、無謀と受け止められていた。
それは、このころの航空業界の共通認識でもあったが、米メーカーのボーイングやマクドネル・ダグラス、ロッキードは、安全上の問題(一発のエンジンが故障して、片発で飛行するときの安全性)から「双発で二〇〇人も三〇〇人も運ぶのは無理だ」「世界のエアラインは買わない」といって相手にしていなかった。
ということは、ぺテイユの計画は、欧州が初めて手がげる大型機であるにもかかわらず、かなりの賭けをともなうものだった。
たとえリスクはあっても、ボーイングをはじめとする巨大な米旅客機メーカーに立ち向かうには、時代をつねに先取りする、そうした大胆で革新的な取り組みで臨むべきだとの信念であった。
その考え方は、その後のエアバスにおいても受け継がれ、フライ・パイ・ワイヤなどのコンピュータ主導の自動操縦装置をボーイングに先だって導入するなど、つねに革新的技術を大胆に採用していく姿勢は、今日までの基本路線となっている。
レジスタンスの闘士ジーグラーベテイユと並んで、エアバス設立の立て役者としてジーグラーがいる。
時はやや遡るが、エアバス設立に対してイギリスの熱意が冷めて脱退がうわきされていたころ、ルドに熱心なド・ゴール政権は、エアバス機の開発を嫌っていた。
このため、エアバス計画は棚上げ状態となって死に体同然となり、存続が危うくなっていた一九六八年五月、突然、フランスを騒乱の渦に巻き込んだか五月革命。
が起こった。
日、米、欧の先進諸国で学生や若者がデモや反乱を起こしていたが、フランスのデモは広く労働者を巻き込んでゼネストとなり、一時は無政府状態に陥った。
このとき、立ち上がった学生のストに最初に加わった労働者が、のちにエアバスの中核工場となるツールーズのシュド・アピエーシヨンで働く航空機産業の従事者たちだった。
このあと、他産業の労働者たちが続々と加わって、ストの輪は全土に広がったのだった。
このとき、航空機産業の政策担当であったへンリー・ジーグラーは、エアバスに否定的な勢力の政府や産業界に向かって「エアバス計画が中止することにでもなれば、三万人もの労働者が職を失うことになるであろう」と警告を発した。
もともとフランス社会では、若者の雇用問題には敏感で、重要視する風潮があるし、大量の失業者が出るとなれば、ストを起こしたツールーズの先鋭的な労働者をいっそう刺激することになる。
この五月革命とジーグラーの発言が、エアバス計画の危機を救う形となった。
ジーグラーはフランスの航空機業界の中で、もつとも力をもつ人物と目されていた。
フランスではもつとも高く評価され、尊敬を集めてきた第二次大戦下における勇敢なレジスタンスの闘士で、数々の功績によって勲章をいくつも受りていた。
自由フランス軍の参謀長にまでなり、終戦時には陸軍の役人となっていた。
このため、第二次大戦下にフランスのレジスタンスを率いたド・ゴール将軍の信任も厚かった。
戦後は、航空分野を担当していたが、フランスの航空機産業の現実を直視して、役人でありながらも、自国だけで再建することは不可能であると主張して、航空相から首にされた。
役所に見切りをつけたジーグラーは産業界に身を投じたが、一九五〇年代半ばには、航空相ジヤツク・シャパン・デルマの事務所を取り仕切っていた。
こうしてジーグラーは、数々の実績と輝かしい経歴を引っ提げて、そろそろ政界入りを考えていた矢先、この五月革命が起こったのである。
「コンコルド」プロジェクトは明らかに失敗の熔印を押されて混乱し、一方、エアバスも存続が危うくなっていて、フランスの航空機産業が危機に立たされていた。
その上、五月革命の嵐が吹き荒れている。
困難な状況にある、この二つのプロジェクトを抱えているシュド・アビエーションは、同時に、先鋭的な労働者によるストに見舞われている。
この逆風にある状況を乗りきり、取り仕切れる人望のある有力な人物を、ド・ゴール大統領とポンピドー首相は求め、その会長職にジーグラーを指名したのだった。
ジーグラーの最大の仕事場は、ごたごたが続いて失敗が確実になりつつあった「コンコルド」プロジェクトの後始末という損な役回りだった。
だが、レジスタンスとして活躍した彼は逆境に強く、状況が困難であればあるほど力量を発揮する政治的にも経験豊かで、時代の方向感覚に優れた技術畑出身の人物だった。
もともと彼は「コンコルド」計画に終始反対の立場を明らかにしていた人物だった。
ベテイユと基本的な考え方は同じで、欧州諸国が結束して経済性の高い亜音速機の開発に全力を注ぐべきであると主張して無謀な「コンコルド」計画が、フランスやイギリスの航空機産業を無用に疲弊させ、財政的にも濫費してしまうことを予想して、生産が打ち切られたあと、いかにして再建すべきかを模索していた。
しかし、仏航空機産業が危機に陥っているいま、自らの信念はひとまず脇へ置き、まずは「コンコルド」の後始末と立て直しに全力を注ぐ決意だった。
そしてまた、ジーグラーはド・ゴールから信託を受けた航空機業界の政策担当者として、これまた死によみがえほんぞう体となっていたエアバス計画を再生して蘇らせ、主に機体の計画作りに奔走していたベテイユと緊密な連携を取りつつ、二人で息を吹き返らせるのである。
ジーグラーはまた、航空機業界の大物たちとの幅広い交流をもつていた。
それだけに、エアバス機の開発で苦労していたエンジンナセルの設計技術に関して協力を願うため、マクドネル・ダグラス社の創設者、ジェームズ・マクドネル(通称、ジミー・マック翁)に会って口説いて、この高度な技術を手に入れ、遅れや開発費の大幅超過が懸念されていたA300の開発に大きく貢献する。
こうした心憎いばかりの駆け引きを演じるジーグラーと切れ者のペテイユとの二人は、エアバスの歴史が語られるとき、必ず登場する立て役者として、またか生みの親。
と呼ばれることになるのである。
残念ながら、日本の航空機業界には見出すことのできないリーダー像である。
共同開発の形態分類ここで、航空機に関してどのような共同開発の方式があるのかを列挙しておこう。
さまざまな呼び方があるが、本書では、日本航空宇宙工業会の分け方を参考にして、発の実施形態から分類して定義づけした。
まず最初は共同開発ジョイントベンチャーリスク負担がともなう共同事業活動で、参加する企業や国家は新たに合弁企業などを設立することなく、互いの契約(合意)のみで実施する方式である。
具体的なプロジェクトとしては「コンコルド」、B767、B777などが挙げられる。
一、複数の企業や国家によって資本や資金が拠出されて設立された協会または企業の連合体の形態を取る方式である。
エアバスがその代表例で、具体的なプロジェクトとしては、A300をはじめとするすべてのエアバスの機種である。

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